昭和40年06月26日 夜の御理解
今日、田主丸の、永瀬さんところのご親戚の方です。熊抱さんという。珍しい名前ですね、熊を抱くと書いてある。そしてそん、熊抱ちいうんですね。それが、この頃から、お産で、小野病院に入院してございました。ところが、もう、非常な難産で、小野先生も大変心配いたしましてから、毎日お取次ぎ頂いておるし、してから、永瀬さんところからも毎日お届けがあって居ったんです。
どうしても、その、出来ませんもんですから、切開手術をするという。で、私があの、そげん無理をせんでも、私は思うたんですけれども、あの、永瀬さんからも御届けがしてあるしねえ、先生からも、毎日お届けがあって居るから、そんなことせんでもおかげ頂くよち言うて。その夕方おかげを頂いた。まあ、無事安産のおかげを頂いたんですけれども。今日はそれが、日晴れで、あのう、永瀬さんの奥さんと一緒に、お礼に出てまいりました。ああ、立派な赤ちゃんですが。
私、何時ものように、御神前に子供を一応お供えして、それから、まあ、この人の生涯をかけての、おかげを頂くようにと御願いをさせて頂きよりましたらですね。この子の上に起きてくること一切がおかげと仰る。この子の上に起きてくること一切がおかげと。有り難しと受けていけば、この子は幸せというような意味のことです。まあ、簡単なことなんですけれど、大変な事だと私は思ったんですねえ。この子の上に起きてくること。御理解に、例えば、病気をしてもです。
んなら、この子が段々成長して、親のいう事を聞かなくてもです。やっぱりおかげだということです。だからそれを、おかげとおかげと頂ききる、親の信心が大事だという事を教えられるわけなんですねえ。病気をすれば、それをもうおかげじゃないように思う。子供が親の言う事を聞かないと、それはもうおかげじゃないように思う。そこにこの方の道は、喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと仰るように、それをその、なぜ喜びで受けられんかと。なぜおかげで受けられえないかと。
それは、私共が、肉眼を持って見るからである。心眼もって見開けば、皆おかげに見えるのであり、おかげであるんですけれども、肉眼を持ってするから、どうして子供が言う事を聞かんのであろうか、信心してるのに、どうして子供が病気をするのであろうかという事になるのです。だから、どうでも信心するものは、肉眼を置いて、心眼を開かねばいけないということが分かるのです。
私はその子を御神前にこう、額づいてお礼を申しておりましたら産まれると同時に、いわばお乳を飲むという事だけは知っておるというこの子供が。ね。口を動かす事だけは知っておる訳です。けれども目が見えない。けれどもその乳を頂いておるうちに、ね。段々日にちが経つに従って目が見えて来る様になる。信心も同じ事じゃと仰る。始めの間は誰だって心の目が開けておるものは、だあれもありはしません。
けども、ひとたび信心をさせて頂いて、教えの乳というものをです。教えを本当に頂くと。ただ、聞いただけじゃいかん。教えを本当に頂くということになれば、誰しもが肉眼をおいて、心眼を開くことが出来るという事を仰る。ところが、皆が心眼を開かない所を観ると、如何に頂いていないかということが分かる。これはもう同じ事なんですよ。産まれたときからです。
お乳を飲むことは、その術を知っておるけれども、口を動かすことは知っておるけれども、目が見えない。段々お乳を飲んで成長していきよるうちに、目が見えるようになるように、信心も同じこと。信心で言う、お乳というのは、私は、教えだと思う。教えを聞くのじゃない。教えをこの身を持って頂かにゃいけん。そこに、肉眼をおいて心眼が開けてくる。心の目が開けてくる。心の目が開けてくるところにです。
一切を有り難しと頂けれる、その事が出来るわけなんです。皆が青なって困っていることを、ね。心眼を開いた人はおかげだというておる。「先生、困りました、どうしましょうか」と。そらおかげばのと言うておられるのです。それは心の目を持ってみるから、おかげといえるのです。そこに、幸せがあるでしょうが。あれもおかげ、これもおかげと言えれる世界。そういう信心の世界にです。
そういう神徳の世界があるということを、私共が分らせて貰うて信心するものは、肉眼をおいて心眼を開かせて頂かなければいけん。最近美智子さんが毎日参ってくるんですよ、子供連れて。それでもう毎日毎日そのやはり難儀のお届けをするんです。そるけん私は今日から、「あんた娘時代にあの水かかって参って来よったろが」ち、私が言うたんです。ほんとに何かこう、あの時分のことを思い出すんですね。
「そんなら先生、もう明日から水かかってお参りします」ち、言うけん。もうあんたが水かかって信心すると言う様な事は卒業せないけんて。例えば主人との間にです「ああ、これが水をうっ掛けられとるのじゃろか」と、ね。寒中もう暑か時に水をうっ掛けられたっちゃ、気持ちの良かぐらいのこつじゃけんの。もうそれこそ寒中に水垢離を取った時のようにですたい。または火の行水の行というが、ね。
今こそ火の行じゃろか、水の行じゃろかということば、あんたが一週間二週間続けたぐらいのことで、へこたれちゃおかげが頂ける筈が無か。もうあんたおかげ頂くよりか、徳ば受けんの。徳を受ける術を、あんた子供のときから稽古しとろうがと言うと。今日は本当にその事をですね、涙を流してからその事を、「先生もうほんとに、おかげばっかり言うてから、御徳を受けとることを忘れてしもうとった。」
先生このことによって、一つお徳を受けさせて頂こうと言うて、今日はもう本当に何時もにもない喜びいっぱいで帰りました。もう皆がそのおかげ、おかげばっかり言うとるっじゃん。ね。始めてその幼い時の心の目が開けとる。「はあ、ほんに先生そうでした」と。もう水かぶるのじゃない。今その実際のことをです。ね。冷たい思いするならば、水を掛かっておると思い、熱い思いをするならば、今火の行でもさせて頂いていると思うて、おかげを頂いていかなければいけない。
そこに、神徳の世界がある。いわゆる肉眼をおいて心眼を開かせて頂く世界がある。今日風呂に入っとりましたら、栄四郎が入ってきとる。そしてもう声高々にして風呂の中で言いよる、歌うようにしてから。それはどういう事を言いよるかというと、「雨が降るから、風が吹くから、えらい大儀と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃあ」ち言うちから(一同笑い)、お湯の中でやっておるです。
「もう、あんた何時の間にそげなこつ覚えたか」ち、私が言いましたら、「この頃、少年少女部会の御理解」ち。へっへっへもう言わせて見なさい。そらそらその事言うです。「雨が降るから、風が吹くからえらい大儀と思うてはならん。その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃ」と。なんのこっじゃら分からんでしょうけれどもです。これが段々中身が分かるようになって来たら、大したものだとこう思うのです。ね。
いわゆる心眼。いわばその神徳の世界というのはです。おかげの世界ではなくて、いわば、肉眼から心眼を開かせて頂く過程というのはです。雨が降るから、風が吹くからというぐらいの事でへこたれてはならんということ。その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと仰る。もちろん、雨やら風やらというだけのことじゃありません。人生の上に起きてくる雨やら、風やらでも同じこと。ね。
今が雨じゃろうか、今が風じゃろうかと思うて、それを辛抱させて、受けぬかせて頂くところに肉眼をおいて、心眼を開かせて頂く世界があるのです。心眼を開かせて頂いた世界にはです。今日その熊抱さんの子供が頂いた御理解のように、この子供の上に起きてくること一切がおかげ。ね。それを肉眼を持ってみるとそれが、ある場合には病気に見えたり、いう事を聞かないということに見えたら直ぐ、そこに親の信心を神様が求めておられるのでございます。ね。
産まれたばっかりの赤ちゃんが、お乳を吸うすべを知っておる。その乳を飲ませていきよるうちにいつの間にか、五十日百日経っていきよるうちに目が見える様になるように、教えの乳というものはです。私共が本気で行じさせて貰い本気で頂く気になればです。誰しもがお徳を受けられるのです。肉眼をおいて心眼を開く事が出来るのです。けども今日の、美智子さんじゃないけれども、毎日先生参りよりますばってん、主人が変わることばあっかり思いよった。
あげなえげつないことば、今日どんいっちょ言わんでくれればいいがと、言う思いばっかりで毎日参ってきておった。ただその術なさで。ところが娘時代に一生懸命信心しておったのが、ほっと今日は、目が覚めたようにです。ほんに先生おかげを頂く世界から、御神徳を頂く世界。御神徳というのは普通では頂けない。やはり雨じゃろか風じゃろかと言う様な所を通って初めて、神徳の世界が開けてくるのである。
神徳を受けなければ、人間の真実の幸せはない。皆がだからそれを頂かなければいけない。そして自分の血に肉にして行かなければいけない。ね。心眼を開かない人は、まあどうした、自分だけは貧乏くじを引かんならんじゃろうかと言いよると、心眼を開いておる人はです。どうも一つの宝くじばっかり自分なひくじゃろか。同じ事を片一方は貧乏くじと見、片一方は宝くじと見るのです。ね。
どうして、こげな難儀なことを、自分だけがというのをです。神様がこうして、私を鍛えて下さるという、感謝の言葉だけしか無いのです。どうでも一つ肉眼の世界から、心眼の世界へと。それは、誰しもが受けられる。皆が生神になれれる道なのである。本気で教えを頂かせてもらう。いわゆる、教えを頂くということは、もちろん、教えを行じさせて頂くということ。
そこに血に肉にならせて貰うてから、自ずと開けてくるのが心眼が開けてくるということになるのですから、ね。ここんところを目指す。おかげを目指すより神徳を目指すということは、何時もかつもというわけにはいかん。なんか色々チャンスがある。今こそ自分が難儀を感じるなら、今こそ、肉眼の世界から、心眼の世界を頂かせてもらう絶好の機会だと心得て信心をさせてもらわにゃいかん。
雨が降るから、風が吹くからぐらいのことでです。へこたれるような信心ではです。辛抱がしぬけないようなことではです。とても、神徳の世界はおぼつかないです。難しいです。ね。折角信心させて頂くのでございますから、どうしても、一つ、肉眼をおいて、心眼を開かせて頂くところまで、そこを目指しての信心にならせて頂かねばならんと思いますね。おかげを頂きますように。
どうぞ。